福祉工場で働くということ。障害者が/障害者と #4「そのままの自分でいい」

担当:関 ひかり
看護師

医師に言われた「もう治らない。」

21年前、突然夫が他界したことにショックを受け、その日を境に聞こえにくくなった。言葉が聞き取れず、話がかみ合わず、2回までは聞き返せても、3回目は嫌な顔をされることがしばしばあった。2カ月たってやっと受診した頃には、「感音性難聴」という回復不可能な状態になっていた。受診にためらった理由は、看護師ということもあり、聞き間違いから患者さんとのコミュニケーションに影響し、医師の指示も理解できず資格を失い、仕事ができなくなって生活が成り立たなくなるのは困る上、その現実を知りたくなくて逃げていたからだ。

「もう治らない。」と医師に言われ、障害者手帳や補聴器の申請など、自分の気持ちの準備もできぬまま事務的に進んでいった。薬を飲めば治るんじゃないか?と期待していたが、10年間内服しても聴力は戻らなかった。聞こえないことを他人に知られたくなくて、わかったふりをしてうなずいたり、愛想よくほほ笑んでいたり、今思うと必死に空気を読もうとして、もがいていた自分が恥ずかしい。それでも、家族や親友にも話せず、ずっと隠してきた。ごまかしていても、周りは気づいているはず。会話ができない人、話が理解できない人と思われていた。あの時、聞こえないことをもっと早くカミングアウトできて助けを求めていられたら・・・。今考えても「たら」「れば」の無限のループに陥ってしまう。

「障害」を持ったナース

「障害」を持ったナースなんかいるわけないと思っていた。周りに若いのにかわいそうにという目で見られるのも嫌だったし、この先もずっと意地を張って隠していくしかないと思った。乾くことのない涙、考え過ぎて眠れない夜、明かりの見えない真っ暗なトンネル・・・このまま消えられたらどんなに楽になるだろうか。顔で笑っていても、精神的には限界だった。

そんな時、趣味のダイビングを通して、今の夫と沖縄で出会った。なぜか、聞こえないことを隠さず、初めて自分からカミングアウトすることができたのはシチュエーションのせいかな。これまで本心を隠してきた自分に、まさかそんな場面が現れるとは思わなかった。ずっと言えなかった「聞こえない」を口に出せるようになってから、自分の障害をやっと認められるようになった。

こんな人生でいいわけない何とかしなくてはと、手話や障害について、社会資源について、これまでシャットアウトしていたことに興味を持ち始めた。手話講習会で同障者に出会い、手話の技術だけでなく心のリハビリとなり、エンパワーメントされ、寿退職して4年のブランクがあったが、もう一度ナースとして働きたいと思った。聞こえなくても今の自分で働きたいと思った。

そのままの自分でいい

福祉や障害について、DETの講座や施設のボランティアを経験した。いろんな人との繋がりがあって、自分の障害のことも見えてきた。いつの間にか、自分からちゃんと聞こえないって言えてるじゃないか。昔の変なプライドから抜け出せてるじゃないか。DETサポーターとして縁があった鶴田さんに声をかけられて、4年前から東京都大田福祉工場の看護師として働かせてもらっている。聞こえないナースで恥ずかしいなんて言っていられない。ヒアリングループ使用、筆談、会議は手話通訳派遣、連絡は電話ではなく、メールやFAXでと、周りにお願いしながらから聞こえのサポートを受けている。心強い所長や上司がいるおかげで、悩むことなく業務ができるようになった。

最初が肝心と思い、初めてあった人には名刺交換の時に自己紹介に付け加えて、自分にできないことやお願いしたいことを話している。聞こえのサポートによって、これまでの看護のスキルは使えるが、病院(医学モデル)と地域社会(社会モデル)の違いには驚かせられた。医学や看護の知識以上に学ぶべきことがあると思った。できないことを嘆くより、できることに目を向けていくこと。当事者が、自らの障害をオープンにして自分の言葉で周りにお願いすることは、「取説」のような大切なスキルじゃないかと思う。

そのままの自分でいい。障害は恥ずかしくない。周りに理解してもらえるような活動も大切だ。いつしか人生を振り返って、あんなこともあったねと、最後は笑えるような人生を過ごしていきたいと思う。